謙遜するな、自分に素直になれ

先日ケーブルテレビで、小学生の音楽コンクールで優勝した少年のインタビューをたまたま見た。そのインタビューを見て驚いた。とにかくその少年のコメントが謙虚なのである。親の入れ知恵かもしれないが、「運が良かっただけ」「周りの人のお陰」など小学生に似つかわないコメントを連発していた。最初は良くできた子供と思って見ていた私も、最後は何かしら計算高さのようなものを感じ、うんざりした。子供らしくないのである。

日本人には、他人に対しては自分を過小評価してみせる慣習めいた美学が存在する。例え相手から褒められても、「いやいや、偶然ですよ」「ついていただけ」と謙遜の言葉を返したりする。本心では決してそう思っていなくても、そのように言わねばならないよう昔から教育されている。もちろん、相手も本心でないことは分かっている場合も多い。

これに対し、自信満々のコメントなどをすると、すぐに「あいつは天狗になっている」「傲慢だ」と非難される。

時に私は思うのだが、本心でもないのにとにかく自分を過小評価したり謙遜することが謙虚さといえるのだろうか。無論、私も謙虚さはあらゆる面で非常に大切なものだと感じている。しかし、そのような社交辞令めいた言葉を発することが果たして謙虚さというのであろうか。

慣習やマナーの問題はともかく、自分自身を肯定できることは非常に重要なことである。そして、必要以上の自己の過小評価や謙遜は、自身の矮小化にもつながってしまう。時によっては、自分を等身大に評価しなければならないのだ。殊に、自分を売り込んだり、アピールする必要がある場合などは、当然そうしなければならない。

また、自分の感情に素直になることも必要である。日本には本音と建前という文化があるが、常に自分自身を押し殺してばかりいると、自分の本音が分からなくなってしまうことさえある。本当は何をしたいのか。本当は何を望んでいるか。一番大切な自分からのメッセージが分からなくなってしまうのである。

それが本当の自分であれば、時には怒りをあらわにしたり、号泣するのもいいだろう。同様に、自分自身に対し正当な評価をしなければならない時もあるだろう。だからといって謙虚でないわけではない。

要は、心の謙虚さは保ちつつ、表現方法を使い分けるということである。年がら年中謙遜すれば良いというわけではないのだ。

但し、だからといって自分を大きく見せたり、虚勢を張ってはならない。あくまでも、アピールするのは等身大の自分であるのだ。

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