私は仕事柄他人の悩み事を聞くことが多い。お金の悩み、人間関係の悩み、仕事の悩みなど皆それぞれの悩み事に苦しんでいる旨私に告げる。
そんな時、私はこう言う。この世には苦しみがあって当たり前である、だから苦しみを受け入れなさいと。
けだし、我々はこの世に生を受けたのは単なる偶然ではない。我々はこの世に修行を積むために生まれてきているのである。当然、苦しみがないと修行にはならない。だから、人はそれぞれ苦しみを抱えて生きて行かなければならないのだ。
苦しみを受け入れ、修行の場なのだから苦しみはあって当たり前と思えれば、苦難や試練に苛まれたときはむしろ自分が成長できるチャンスだと考えられるはずである。乗り越えたときは一回りも二回りも大きくなれるからだ。
いや、チャンスと考えるだけではなく、チャンスを与えてくれた苦しみに感謝することさえできるはずである。試練を喜ぶ気持ちを持てるはずである。
苦しみに感謝できるようになると人には決して愚痴らない。「私一人だけがこんなに苦しんでいる」「俺だけがこんな目に遭ってる」などとは他言しなくなるのである。そのようなネガティブな考え方にはならないのだ。
苦難や試練に直面したときは、どんなに苦しくても逃げてはならない。
人間には快楽原則がある。苦しいことや辛いことより、楽しいことに向かっていく性質がある。
しかし、今一度言う。苦しみは修行である。神様が我々に与えた試練なのである。逃げたら終わりなのだ。
にも係わらず、苦難や試練に直面した人間の多くは逃げ出す。逃げたら終わりと知っているのにだ。例えば、仕事上のスランプに陥っても、ほとんどの人は仕事を辞めないだろう。その程度のことで辞める人間は論外だ。何とかしようと立ち向かうだろう。なぜなら、スランプから抜け出せなければクビという制裁があるからだ。
一方、苦難や試練が個人的あるいは内面的であればあるほど、それから逃げ出しても目に見える制裁はない。つまり、強制力が働きにくいのだ。
神様は逃げ出す様を見ている。意志の強さを試されるのも修行のうちなのである。
神様が与えた苦しみという修行を放棄した者には厳しい制裁が待っている。現世ではまだいい。だが、死んでからが大変なことになるのだ。
逆に、修行をまっとうできたものは、現世では成功というご褒美を、来世では天国行きというご褒美をもらえることになる。
とにかく、苦しみから逃げてはならない。嫌なことから逃げてはならない。
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