失敗し続ける人、一時的に成功しても転落してしまう人を見ているとひとつの共通項を見ることができる。
それは人を不快にするということである。これはおそらくあらゆる成功理論を見渡しても真理といえるだろう。
あまりに当たり前に聞こえる。大マスコミのオーナーもほどほどに毒舌を吐いていたころには、それでも面白がっていた人がいた。しかし、ある一線を越えたとき、少なくとも表舞台からはお引取りいただいた。
通常、人は不快なことが嫌いである。好きな人はまずいないだろう。不快に感じる事象かそうでないかは人それぞれだが、それでも決定的に誰しもが嫌うものがある。
例えば、ドタキャンである。
成功者でドタキャンをする人はまずいない。用意周到なこともあるが、約束を守ることに、大げさに言えば命を懸けているからだ。また、ドタキャンがどれほど人に不快感を与えるかを熟知しているし、人の時間を奪うことになることもよく知っているからだ。
要は、自分と他人とが共有している時間というものに尊敬の念を抱いているのである。自分の時間を尊び、他人の時間も敬っているのだ。
返せば、人間に与えられた時間は有限なものであり、大事に使うことがいかに重要なことであるかを知っているのだ。かくいう私も時間には人一倍うるさい。無駄に使っている人はともかく、人の時間を平気で無駄な時間にしようとする輩には人一倍厳しく接する。
とにかく人の貴重な時間を土足でふみにじる行為がドタキャンなのだ。
気心知れた友人と重要な取引先との重要な会議。前者はドタキャンしてもいいが、後者は、そんなこととてもできないと考える人がいる。この考え方も、まったくの間違いである。相手が誰であれ、絶対にドタキャンだけはしてはならないのである。
ドタキャンは言うに及ばず、約束を破ったことに対する業量は大変なものである。例え相手がおおらかな態度で許してくれたとしても、必ずや違った形で大きなしっぺ返しを食らう。
ドタキャンする人に成功はない。当たり前だ。
現在、携帯電話や各種通信機器が発達している。どんな状況であれ「ちょっと遅れる」と土壇場になって、連絡している人が多いと聞く。連絡したからいいだろうという意識が、違った形で蔓延しているのかもしれない。通信手段のなかった昔の人は、そうはいかなかった。まさに命をかけて約束遂行に邁進したのだろう。
通信機器の発達により、約束遵守の意識が薄れているのであれば、より強くドタキャンという業を意識すべきである。
死んでもドタキャンするな。最悪の人生を歩みたくないのであれば。
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