一つ聞くが、皆さんは生きていることの喜びを感じているだろうか。感じているのであれば、それはどのような場面にであろうか。
志望していた学校や会社に入れたときや以前から思い焦がれていた人と付き合うことになったとき、会社で昇進したとき、初めての子どもが生まれたときなどが挙げられると思うが、美しい光景を見たときやとても美味しいものを食べたとき、喉がカラカラに乾いているときのビールなどもあろう。今回は生きていることの喜びについて話そう。
前記のように、誰でも生きていることの喜びを感じる場面はあるはずだ。しかし、多くの人は、その場面は、社会生活の中の一瞬であろう。
大切なのは、生きていることの喜びを常にもつことである。それにより、生きていること、生かされていることに感謝の気持ちが湧いてくるのだ。
生きていることの喜びは、何も入試や結婚といった一生に一度きりの大きなことでなくともかまわない。空腹のときの食事や喉が渇いたときの水といった日常的な、ごくありふれたことでも十分である。要は、喜びの対象を探せるか、あるいは感じとれるか否かということである。平凡な生活をしていても、生きていることの喜びは探そうとすればいくらでもあるはずだ。裏を返せば、多くの人々は、いかに生きていることの喜びを感じたり、探したりする努力を怠っているかとも言えよう。
思い当たる人は考えてみてほしい。そして、日頃から生きていることの喜びを感じられるよう訓練すべきである。
では、訓練方法を教えよう。
まず、毎朝目覚めたときに「今日、私は生きていてよかった」と感謝することからはじめてもらいたい。そして、その日一日を一生懸命生きようとする努力をするのだ。生きていてよかったと感謝することが習慣となれば、他の今まで気づかなかった些細なことに対しても、喜びを感じられるはずだ。
次に、死生観を身に付けることである。自分の死について真剣に考えることができれば、そこから生きている喜びを見いだせるはずだ。歩けることや喋れること、働けることなど普段は当たり前と思っていることにさえも、喜びを感じられるのである。
さらに、辛いときや悲しいときに「それでも生きているのだから、生かされているのだから幸せだ」という意識を持つべきである。辛いときや悲しいとき、悩みあるときにこそ生きている喜びを感じるのだ。
とにかく、今言ったことを日々継続して行ってほしい。次第に、生きていることの喜びを、常時感じられる体質に変わっていくことだろう。
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