価値観に囚われるな、常識を盲信するな

私の主宰する講座やセミナーを受けられる人たちは、自分の人生や自分自身さえ変えたいと思っている人が少なくない。自分自身に対し何らかの問題意識を持ち、より向上したいという気持ちは評価できる。しかし、映画やテレビではなく、現実世界でそうやすやすと人生や人格は変わるものではない。

何びとといえども10年、20年と人生経験を積んできた中で、自身の様々な経験によりそれぞれ違った価値観が根付いている。人生や自分自身を変える場合、この価値観を一旦捨てなければならない。これが難しいのだ。

では、価値観を捨てるためにはどうすればいいのか。やはり、第三者の視点から自分自身を見つめる行為を行わないと価値観は完全に捨てきれないものだ。自分の主観を基準にするならどうしても価値観は捨てきれない。すなわち、自分の主観自体も価値観により成り立っているゆえ、第三者というより客観的な基準が必要であるのだ。

また、価値観を構成している要素に常識がある。われわれ日本人はことのほか常識にとらわれる。言い換えれば、常識に反することをとても嫌う。「常識外れ」「常識知らず」のレッテルを貼られると変人の如く扱われる始末である。

しかし、常識は時代によって異なるものである。例えば、我が国では、かつて権力者は正妻のほか多くの側室を娶ることが「常識」であった。このかつての常識は、現代の世では重婚罪として処罰の対象にさえなる。

また、常識は現代においても、国ごとに異なる。中東の国々では、日本では犯罪にあたる一夫多妻制がなお「常識」として認められている。

このように常識は、国により異なるものであり、同じ国でも時代により変遷していくものである。確かに、「盗むことなかれ」など、どの時代、どの国にでも通じる常識も少ないながら存在する。

だが、多くの常識は変遷を重ねるものであり、実際には、リアルタイムで変わっている。すなわち、価値観や常識は実体のないものである。決して真理ではないのだ。真理はどんな時代でもどんな国でも妥当するものである。

大切なのは、常識ではなく真理に従うことである。こう言うと常識には従わなくてよいと考える人が出てくるが、誤解である。私は、敢えて常識に反する行動に出ろと言っている訳ではない。常識を盲信するなと言っているのである。

真理を学び、真理に従えば自ずから進む道は開けて来るのである。

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