私は常々「他人に施しをせよ」といっている。理由は財を施すことは徳積みにつながるからだ。徳を積めば運気があがり、成功につながる。
では、寄付をすれば必ず徳を積めるのかといえばそう簡単ではない。寄付は場合によっては業を積むことになる。徳を積みたいばかりにやみくもに寄付をしていたら逆に業を積んでいたということもある。誤解しないでほしい。皆さんの大事なお金に関することだ。今回はこの辺のことを話そう。
寄付をはじめとする財施が徳を積むのは、人助けをしたからである。であれば、その対象は本当に困っている人でなければならない。それでは、本当に困っている人とは何かということが重要になってくる。本当に困っている人の定義は外的要因で困っている人である。例えば、飢餓に苦しむアフリカの子どもたち、戦争で全てを失った難民たち、先天性の病気で苦しむ人々など自分と無関係な外的原因により困っている人々である。
内的要因により困っている人に寄付をしても徳を積めない。それどころか業を積んでしまう場合がある。
内的要因により困っている人とは、その人の内的な原因、つまり自分自身に帰責性がある原因により困っている人である。博打や酒に溺れて借金に喘ぐ者や、怠け癖により生活苦に陥った者などである。このような人に寄付をしたところで再び博打や酒にはしる。結果的に人助けをしたのではないから当然徳など積めない。その人がより堕落し人様に迷惑や被害を与えてしまえば、業すら積むこととなるのである。
しかし、実はこの判断は難しい。先に挙げた例は極端なもので誰でも判断がつく。では、ホームレスに施しをするのはどうであろう。
真面目にコツコツと働いてきたのに会社が倒産して仕方なくホームレスになった人などは外的要因で苦しんでいる人にあたる。昔からの遊び癖が抜けずにとうとうホームレスにまで身を落とした人は内的要因で苦しむ人であろう。
同じホームレス一つをとってもこうも違うのだ。実社会に於いて困っている人には、様々な要因がある。時には外的要因と内的要因が複雑に絡み合って苦しみをつくりだしているケースもある。決して外見や見た目だけでは判断できない。その内面をさらけだすほど深く付き合わなければ分からないのである。
施しは人を見てなすべきなのである。これは大変難しいことである。
だからといって、他人に施しをすることを躊躇してはならない。この世的な成功ばかりでなくあの世的成功をもたらす功徳、つまり霊助けにつながる利他の心を育ててくれるからである。
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