先日レストランで食事をしていたところ、三、四歳くらいの子供が大きな声で泣きながら母親に駄々をこねていた。多くの客がディナーの最中であったことから、困惑した母親の顔は今でも忘れられない。まあ、如何せんこのくらいの年齢である。ある程度のわがままもやむを得まい。
わがままは、別名自我とも言われるが、人間は三歳くらいを起点として自我が発生すると言われる。このくらいの年齢から、思い通りにならない場合には、親の言うことを聞かなくなるのだ。
自我は多くの場合悩みの根源になっている。人生にしろ、恋愛にしろ自分が思った通りにならないから、みな悩むのだ。
もっとも自我もそう悪いものではない。けだし、神様が、人間に自我を与えたのは、われわれに修行をさせるためだからである。もし、人間に自我がなければ、喧嘩から戦争に至るまで争いの一切はなくなるだろう。自己の利益のみ追求する者もいなくなり、みんなで助け合う理想的な世界になるであろう。
しかし、その一方で人間は向上心や努力、忍耐といった大切なものも失うのも明らかである。つまり、人間は自我によって、自分自身を進化向上、発展させるのである。
だからと言って、自我を放置するわけにはいかない。言うまでもないことであるが、自我は、他人に不快な思いをさせ迷惑を掛ける。戦争を初めとする争いや、殺人、窃盗などの犯罪の原因でもある。
では、われわれは自我を消し去るために何をすべきか。残念ながら自我を完全に消去することはできない。しかし、俯瞰法により、一時的な無自我な境地を作り出すことは可能である。
要するに、自分を第三者のごとく客観的に見ていければ、無自我になる。自我と言うのは自分に備わっている我である。自分というものを肯定するから我は生じるのである。とすれば、冷静に自分自身を第三者として見ていくのだ。そうすることで、少しずつ自我をコントロールできるようになり、一時的に我を消し去ることができるのである。
無自我な状態というのは、今ここにいる自分に「はっ」と気づいたりする瞬間なのである。自分がここにいても、自分ではないということである。継続して実践していけば誰でもできるようになる。
自我はわれわれ人間の悩みの源であるとともに、争いや諍いの原因である。自我を軽減することがわれわれ人間に与えられた試練であり、世界をよりよくするための課題なのである。
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