犯罪の凶悪化、低年齢化の傾向が著しい。目を覆い、耳を塞ぎたくなるような残酷な事件も度々発生するようになった。
こういったことに起因するのは、当人達の過去世による因縁である場合が多い。凄惨な事件が続発するのは、おそらく、現在、過去世において戦国時代や戦争時代に存在していた人が多かったのではと思われる。想像を絶するようなひどい殺されかたをされたものもいるだろう。果てしない量の血を流したものもいるだろう。それが因となって現代に現れていると考える。
全てのことには、因(原因)と果(結果)がある。この定義を因果律という。これは、絶対的な真理であり、逃れる道は唯一、解脱しかない。望むと望まないにかかわらず、人間は必ず因果律の呪縛の中に生きているのだ。
今世をいかに生きるかにより、来世は変わる。今世での行いが素晴らしく良ければ、来世は素晴らしいところに転生する。逆に、凶悪な犯罪者は、前世での悪行が因となっている。前世で最も罪の重かった者が行く世界である地獄界の人間は、生まれ変われば犯罪者になる可能性は非常に高い。
いずれにせよ、今世の生きかたは来世につながっているのである。来世に幸せな人生を送りたいのであれば、今世の生きかたにかかっているのだ。われわれが死ぬまでの間にどれだけの徳を積んだかが来世を決定するのだ。
自分が今不幸であるとしたら、例えば幾ら努力をしても実を結ばない、あるいは真面目に生きているのにもかかわらず災難が次々と降りかかるとしたら、その原因はどこにあるのか。それこそ、前世か今世にあるのだ。今世であろうと前世、前々世であろうと蒔いた悪種、すなわち悪因が不幸や災難の原因になっているのだ。
では指をくわえて、いつつくられたかも分からない悪因が不幸な果として出現するのを待っているしかないのか。対策はないわけではない。行うべきことは、二つのことである。
一つは徳積みである。今世あるいは過去世に既に因が存在する以上、果の発生は避けられない。そうであれば、まずは、徳を高めて結果を軽減させるのだ。
二つ目は懺悔である。前世、前々世などの過去世に関し懺悔するのである。「私は罪深き人間です。私のすべての行為をお許しください」と懺悔するのである。ここにいう「すべての行為」には、当然過去世の行為も含まれる。懺悔も悪果を軽減する有効な手段である。
ここで注意すべきは、徳積みや懺悔によっても結果の発生を避けることはできないということだ。悪因にせよ、良因にせよそれを消滅させることはできない。因が存在する以上、結果は必ずでる。それが因果律である。
しかし、それが大きな悪果か小さな悪果かは分からない。交通事故で死に至るか、むち打ち症になるか、もしくは車の破損だけで終わるのか。だから声を大にしていう、可能な限り徳を積め。懺悔をせよ。
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